エピソードがない

ぼくはほかのひとに話すエピソードがないタイプの人間だ。友達との雑談とか会社の飲み会とかで、話題が振られて自分のターンになった時に話すあれのことである。多くのひとは場にいるほかのひとが耳を傾けたくなる楽しいエピソードのひとつやふたつは持っていて、大学時代になにがあったとか恋人や家族となにがあったとか最近あったおもしろいこととか、そのあたりの話題を話すことが多いのではないだろうか。さらに話し上手なひとであればエピソードは単なるエピソードを話すことで終わらず、きれいなオチだったりほかのひとが体験したことがないようなことだったりを使って、なんというか「きれいに整った」エピソードを「トーク」する。

ぼくにはそんなエピソードがまるでない。ないので自分のターンになったときに困る。困るのでほとんどの場合、言葉に詰まるかまたは黙るという結果に至る。黙ってしまったらその日は終わりで、あとは自分の頭のなかで大反省会が繰り広げられる。困ること自体は大してネガティブに思わないのだけど、やはりエピソードがないというのはほんの少しだけ自分の社会性を否定しているようなワードにも思えなくもなくて、ついつい自問自答してしまう。ぼくには話すべきエピソードがないのだろうか? エピソードをつくる「努力」をしていないのだろうか? 否、そんな「努力」をほかのひとが仮にしているならば、いまごろ大学には「エピソード構築第2」なる授業ができているだろうから、その可能性はほとんど限りなく低いとして、ぼくはそんなにつまらない人生を送ってきたのだろうか?

ひとつ言えることは、ひとによって「エピソードの発生しやすさ」はまちまちだということだ。数学の正規分布のようなバラつきがあると表現してもよいかもしれない。無限にエピソードを生み出している上位5%のひともいれば、ぼくが属する下位5%のひともいて、ひとそれぞれであるはずだ。

エピソードがないひとと無限に生み出している(またはそれなりに生み出している平均的な)ひととの違いはきっと、人間の磁場的なものに由来するのではないか。磁場的といってしまうとオカルトチックになって表現が少しばかりはばかられるが、そういうことを言いたいわけではなく、ようは普段の振る舞いだったり行動だったりがこの磁場的なものを決定していて、エピソードを引きつけたり遠ざけたりしているのではないかということだ。こうやって言うと、それは単にひと付き合いが好きなひととそうでないひとの違いなんじゃないの? とおもうひともいるかもしれないが、容易に単純化できるそういったものではないという主張であることに念を押しておきたい。ひと付き合いが好きで友達が多いというのはあくまでひとつの要素であって、例えば外見的な要素(ぱっとみの近寄りにくさ)とか、趣味嗜好(アウトドアかインドアか)の種類とか、経済的要素とかも当然影響してくるとおもう。そういったいくつかの要素をこれまでの人生で積み重ねてきた結果、算出されたぼくの磁場的な値はきっとエピソードに対してプラス方向のベクトルを持たないものだったということなのかもしれない。

ここまでいろいろ書いてきたが、いま頭のなかを横切っていったのは、むしろほかのひとがエピソードだと思っていても「自分がエピソードだと思っていない」ということも加味したほうが適切なのではないかという考えだ。おそらくエピソードに自覚的で客観的なひとであればあるほどエピソードは「エピソード化」されやすいのかもしれない。だけどそうやって「エピソード化」されたエピソードはぼく自身あまり魅力的だと思わないので、これからもほかのひとに話すエピソードがないまま、きっと困り果てることになる。