エレベーター

 行きたい階数のボタンを押す。扉が閉まってほんの少しだけ重力が強くなる。10秒ぐらい経つと扉が開いて、扉が閉まる前の景色とは違う景色が目の前にあらわれる。

 幼いころのぼくは、それをまるでそれを幼稚園で詠み聞かせられた絵本や紙芝居のように不思議な出来事だとおもっていた。その不思議さは、少しだけ緩慢な扉の開閉動作だったり、押すと階数が光るボタンだったり、知らないひとが一緒に乗っている空間だったり、背面部に取り付けられている威圧感のある大きい鏡だったり、ほかの空間とは異なるいろんな要素によっていっそう強く印象付けられていた。

 よく母方の祖母に連れられて行った大型ショッピングセンターの婦人服のコーナーは、当時のぼくにとってとても退屈で、駄々をこねたり、おもちゃコーナーに行きたいと泣きわめいたりしたかもしれない。ただそれよりもエレベーターに乗っていろんなフロアを行き来すること自体が、退屈さを上回る楽しみだった。幼いぼくの身長でわずかに届かないボタンを楽々と押してしまう祖母の姿が、扉を開閉させたり他の階に移動させたりする呪文を唱えているように見えて、おとなになったらこんな魔法が使えるようになるのかな、と目を輝かせていた。

 小学校に入ってエレベーターの仕組みがなんとなく分かる年齢になり身長も伸びてくると、エレベーターが不思議な紙芝居のような空間であることや祖母が魔法使いであることよりも、自由自在に操作できる「大きな機械」である側面に魅了されていた。自分で自由に動かせる機械といえば、それまではチョロQ(もはや機械と呼べる範疇にすらない)や電池式のラジコンが関の山だったが、それらよりもはるかに大きい鉄の箱を自分の意のままにできることに感動していた。そしてエスカレーターは大の宿敵だった。間違ってもエスカレーターでは移動したくなかった。エスカレーターは乗っていても同じ景色でつまらないし、なにより自分の言うことをきいてくれない。たとえワンフロア下の階であっても、エスカレーターがエレベーターより目的の地点に到着する最短の手段であっても、エレベーターで移動したいと言った。休日の混雑しているエレベーターの前でしばらく待つ時間があったとしても、ぼくは祖母に「エレベーターがいい」と断固要求した。

 通っていた小学校には「ひとを乗せる」エレベーターはなかったが、給食を運搬するエレベーターはあった(いまだにあれをエレベーターと呼んでしまっていいのかわからない。昇降機と呼ぶべきなのだろうか、だとしても普通のエレベーターも昇降機だし、結局のところなんと呼べばいいかよく分からない)。そのエレベーターには主にごはんやみそ汁など重量の重い給食が載せられたが、なぜか牛乳だけは給食当番が人力で運ぶことになっていて、上級生にもなると牛乳パックが詰め込まれたケースを1階の職員室近くの保冷庫から3階の奥の教室まで1人で息を切らしながら運ぶ。どうせなら牛乳も一緒に運べばいいのに、とおもったが、ショッピングセンターのエレベーターにぞろぞろと入っていくひとたちの頭が牛乳パックになった姿が不意に浮かんできて、なんだかかわいそうだとおもったので、頑張って運ぶことにした。シンドラー社のエレベーター事故が頻繁に報道されるようになったのもちょうどこの頃で、機械が暴走して言うことをきかなくなる怖さとその結果を小学生なりに理解した。

 幼少期とは翻って、中学はエレベーターとは無縁だった。無縁というと、ふつうのひとはエレベーターとなんらかの縁があるみたいな言い方になってしまうが、そういうことではない。中学にはエレベーターらしきものはなく、ショッピングセンターに関しても、よく一緒に買い物に行った母方の祖母とは両親の離婚で疎遠になってしまっただけのことだし、そもそもエレベーター自体に魅力を感じなくなっていた。高校にもエレベーターはなかった。高校の最寄り駅の近くにある百貨店の中のエレベーターには「監視カメラ作動中」と大きな赤い文字のシールが貼られていて妙な気持ち悪さを覚えたぼくは、それが安全のためであるということを頭の隅では理解しながらも5階にある書店に参考書を買いに行くのにわざわざ階段を上り下りしたりもした。

 大学には当然ながらエレベーターがあった。中学・高校とは違って、大学には建物がたくさんあり、4階建て以上のほとんどすべての建物にちゃんとしたエレベーターがあった。そう考えると学内はエレベーターだらけだった。どれも似たようなエレベーターで、ボタンも全体が煌々と光るタイプのものではなく、数字だけが光るちょっとシックなタイプで、それらのエレベーターは、建物の1階と講義室やゼミの部屋を結ぶだけの単なる移動手段に過ぎなかった。1限がある日はいつも1階ではない階で止まっていて(講義に出席する学生がどこかの階で必ず降りているためだ)、必ず1階でエレベータを待つ時間があった。特に1限の出席確認に間に合うかどうかギリギリのときに待つエレベーターはとても長く感じた。

 新卒で入社した会社が入っているテナントビルのエレベーターは平成に存在するとは思えないほど古い外観のエレベーターで、特に最初に採用面接で訪れたときに目にしたときは「シンドラー社」の文字が頭のなかをよぎったが、製造会社を見ると全然違う会社だったので安心した(テナントビル自体はなんだか刑務所みたいだったので、その安心感は半分ほど薄れてしまった)。扉の開閉音はとてもうるさくてガシャンと大きな音を立てる。そのうえ狭く、タバコのにおいが壁面から漂ってきたし、掃除もろくに行き届入れおらず、特に真夏は前に乗っていたひとの汗臭さが残っていて、快適からは程遠い空間だった。入社から3か月も経って仕事に慣れてきたタイミングで会社が移転することになり、そのビルの8階のボタンを押すことは永遠になくなってしまった。永遠というと大げさに感じるかもしれないが、大げさではなく、実際テナントビルは都市再開発によって取り壊されてしまって、あのきたないエレベーターはもうこの世には存在しない。

 転職した先のエレベーターは「秩序のあるきれいな」エレベーターだった。そもそもテナントビルも大型で30階ぐらいある高層のビルだったし、比較的名の通った企業が入居していたので、それもその通りといった風情だった。中はとても広く20人ぐらいが同時に乗れる大きいサイズのもので、ボタンはもはやポチポチ押すような「ボタン式」ではなく皮膚が接触すると光って教えてくれるタイプのものだった。低層階に向かう専用のエレベーターと高層階に向かう専用のエレベーターがそれぞれ分かれていて、朝や昼の混雑する時間帯はみんな1列にならんで順番を待っていた。ぞろぞろとエレベーターから出ては入っていくひとびとの様子を見ていると、ぼくは久しぶりにケースに入った牛乳パックを想像したし、ぼくも牛乳パックの気分になった。

 会社を辞めた次の日、自宅の近くのショッピングビルに立ち寄る(ここではエレベーターを使うことはほとんどなく、かつては宿敵だったエスカレーターを使って移動をすることが多い)。1階のエレベーターの前を通ったとき、扉の前で待っている年配の女性とその孫と思しき少年の2人組が目に入った。ぼくは足を止めてその後ろに並ぶかどうか迷ったが、そのままエスカレーターのほうへと向かう。やはり気になって振り向くと、上階から乗ってきた人がずらずらと降りて、代わりに年配の女性とその孫が乗っていくのが遠くに見える。扉が閉まる。ぼくはあの少年がボタンに手が届くかどうかをイメージしたけれど、結局その指先はわずかに靄がかかって、見えなかった。

教室の右端のトモカちゃん

 中学時代、トモカちゃんという女の子がいた。ほかの子と大きく変わらない背丈でショートヘアの痩せた女の子だった。ぼくは中学3年間、そのトモカちゃんとは1回しか同じクラスになったことがなく、それは中学2年生のときであったが、生徒数が多い中学校だったので1年生のときは顔も名前も知らなかった。
 中学2年生の時の担任は大手予備校にいそうなちょっとイケイケ系というか、たまに見ているこっちが恥ずかしくなるようなテンションで授業をするタイプの教師だった。その担任は学年が変わって初日にいきなり席替えを提案したので、なんだかクラス全体も妙にテンションが高くて、そのせいかその日のクラスの空気は教室の清掃が終わってみんな下校するまでずっとその担任の空気に染まっていたようにおもう。
 その席替えの話になるが、トモカちゃんはその年の4回(実際はもっとあったかもしれないし、もっと少なかったかもしれない)の席替えのうち、すべて右端の真ん中の席を選んだ。5列くらいあった席のうちの前から3列目だ。
 席替えはくじ引きで決まる。1から35ぐらい(35人前後のクラスだった)までの数字が書かれていて、早い番号を引いた生徒から好きな席を選べるシステムだった。人気の席はだいたいの場合、教室を上から見たら凹の字の内側の部分に該当する席で、5列目(最も後ろの席)→4列目(後ろから2列目)と左端(窓側)と右端(廊下側)→真ん中→1列目(最前列)のような順番で埋まっていった。いま振り返れば、授業の内容とは関係ないこと(例えば、次の授業の宿題だったり、携帯をいじったり)をするという理由で後ろに行くことが多いのだけれど、割と頻繁にそういったことをする生徒が早い番号を引いてガッツポーズしながら後ろに行くのを見ていると、なんだかこれから万引きをするひとが監視カメラに正々堂々とアピールしているみたいな感じで滑稽だ。
 なんだかんだぼくも例に漏れずみんなに従って、早い番号のくじを引いた場合は後ろの席にしたり、逆に遅い番号のくじを引いてしまって自分の思い通りにならない席(最前列)になったりしたことがあるが、それで言うとトモカちゃんは結果から推測するに、くじ引きの番号に関係なく(もしかすると4回連続で早い番号のくじを引くことができたかもしれない)自身の希望する席を取ることができたわけである。

 トモカちゃんは傍から見ていると物静かな感じで、他の生徒ととても仲が良かったというわけではなかったとおもう。周囲の生徒と話しているのはほとんど見たことがなかったし、部活をなにかやっていたというわけでもなさそうだったし、物静かというのは何で定義されるのかはひとそれぞれかもしれないけど、あえて一言で言ってしまうとトモカちゃんはとにかく「行動範囲」が狭かった。文字通り、彼女が学校に来てから帰るまでの行動する物理的な範囲のことである。
 ぼくが朝登校すると、すでに右端の前から3列目にはトモカちゃんが座っていて、ぼくもそれなりに登校は早いほうだったが、いつも右端の3列目にはトモカちゃんがいた。少しだけ猫背で髪の毛で隠れているので横からは表情があまり見えなかったけど、そこに座って静かに本を読んでいたり、宿題をやっていたりしていた。小説を読んでいたのか、それとも内心焦って今日の授業の宿題をやっていたのか、来週に控える期末考査の勉強をしていたのか、はたまたキャンパスノートに絵を描いていたのか、それは結局だれにも分からなかった。それがその日の最後の授業が終わるまでずっと続いていてその毎日に繰り返しで、そう考えると、「行動範囲」というよりも、なにをしているのかの「だれにも分からなさ」が積み重なっていった結果として、彼女の物静かな印象が決定づけられていたのかもしれない。
 4回あった席替えのうちの最後の1回(初雪が降って間もない頃だったようにおもう)だけ、ぼくはトモカちゃんの後ろの席に座ったことがある。くじ引きの順番もそこに座った経緯もいまとなっては分からないが、とにかく後ろに座った「その瞬間」のことだけは覚えている。なんだかいまにも握ると消えてしまいそうな小ささと薄さで、目の前にはただ彼女の背中があった。
 横から見ているだけでは分からなかったけど、近くに来て見るとほんとうにそう実感した。他の生徒との景色の一部だったときの他者との相対的な姿では分からなかった、なにか絶対的なものが現前していたし、少なくともぼくはそう錯覚していた。よく「父親の背中が大きく見える」という表現があるけれど、その表現とはちょっと違うような「小さくて薄い」感じだった。そういえば、末期の胃がんの祖父が窓辺のベッドからほとんど残っていないに等しい力を振り絞って立った時に見た、残り少ない「いのちの量」みたいなものが祖父の背中にはあらわれているような気がして、それと同じものをトモカちゃんの背中にも当時の中学生のぼくは感じ取った。そして、その席に座っていたあいだ、彼女が授業のプリントを後ろの席のぼくに後ろ手で渡すたびに、その手の白さと「いのちの量」の少なさが祖父の姿と重なっていくような感じがして、毎回、深刻に近いような申し訳ない気持ちになった。
 それからその席で彼女と話したりしたということはなく、年明けの最初の登校でぼくは自分がトモカちゃんよりも早く登校していることに気が付いて、その日は彼女が登校していなくて、右端の3列目の席はその日から学年が変わるまでずっと空っぽになっていていた。ほんとうに誰も座っていなくて、彼女は小さく薄くなってどこかに行ってしまったと認識するまでトモカちゃんと話すことは結局1度もなかったどころか、彼女の表情を正面から見ることもなく、横から見た猫背ぎみの姿と、小さくて薄くて消えそうな背中だけが記憶に残っている。

エピソードがない

ぼくはほかのひとに話すエピソードがないタイプの人間だ。友達との雑談とか会社の飲み会とかで、話題が振られて自分のターンになった時に話すあれのことである。多くのひとは場にいるほかのひとが耳を傾けたくなる楽しいエピソードのひとつやふたつは持っていて、大学時代になにがあったとか恋人や家族となにがあったとか最近あったおもしろいこととか、そのあたりの話題を話すことが多いのではないだろうか。さらに話し上手なひとであればエピソードは単なるエピソードを話すことで終わらず、きれいなオチだったりほかのひとが体験したことがないようなことだったりを使って、なんというか「きれいに整った」エピソードを「トーク」する。

ぼくにはそんなエピソードがまるでない。ないので自分のターンになったときに困る。困るのでほとんどの場合、言葉に詰まるかまたは黙るという結果に至る。黙ってしまったらその日は終わりで、あとは自分の頭のなかで大反省会が繰り広げられる。困ること自体は大してネガティブに思わないのだけど、やはりエピソードがないというのはほんの少しだけ自分の社会性を否定しているようなワードにも思えなくもなくて、ついつい自問自答してしまう。ぼくには話すべきエピソードがないのだろうか? エピソードをつくる「努力」をしていないのだろうか? 否、そんな「努力」をほかのひとが仮にしているならば、いまごろ大学には「エピソード構築第2」なる授業ができているだろうから、その可能性はほとんど限りなく低いとして、ぼくはそんなにつまらない人生を送ってきたのだろうか?

ひとつ言えることは、ひとによって「エピソードの発生しやすさ」はまちまちだということだ。数学の正規分布のようなバラつきがあると表現してもよいかもしれない。無限にエピソードを生み出している上位5%のひともいれば、ぼくが属する下位5%のひともいて、ひとそれぞれであるはずだ。

エピソードがないひとと無限に生み出している(またはそれなりに生み出している平均的な)ひととの違いはきっと、人間の磁場的なものに由来するのではないか。磁場的といってしまうとオカルトチックになって表現が少しばかりはばかられるが、そういうことを言いたいわけではなく、ようは普段の振る舞いだったり行動だったりがこの磁場的なものを決定していて、エピソードを引きつけたり遠ざけたりしているのではないかということだ。こうやって言うと、それは単にひと付き合いが好きなひととそうでないひとの違いなんじゃないの? とおもうひともいるかもしれないが、容易に単純化できるそういったものではないという主張であることに念を押しておきたい。ひと付き合いが好きで友達が多いというのはあくまでひとつの要素であって、例えば外見的な要素(ぱっとみの近寄りにくさ)とか、趣味嗜好(アウトドアかインドアか)の種類とか、経済的要素とかも当然影響してくるとおもう。そういったいくつかの要素をこれまでの人生で積み重ねてきた結果、算出されたぼくの磁場的な値はきっとエピソードに対してプラス方向のベクトルを持たないものだったということなのかもしれない。

ここまでいろいろ書いてきたが、いま頭のなかを横切っていったのは、むしろほかのひとがエピソードだと思っていても「自分がエピソードだと思っていない」ということも加味したほうが適切なのではないかという考えだ。おそらくエピソードに自覚的で客観的なひとであればあるほどエピソードは「エピソード化」されやすいのかもしれない。だけどそうやって「エピソード化」されたエピソードはぼく自身あまり魅力的だと思わないので、これからもほかのひとに話すエピソードがないまま、きっと困り果てることになる。